1999年07月15日

『 そのときは笑って 』1




その時は笑って


大宗むねひろ


 草原の国ガイゼルの都は、その日も見事に晴れわたっていた。青みを帯びた初夏の陽射しが、無数の墓石に照りかえす。その眩しさに眼を細め、ヴォルグは額の汗を拭った。
「こりゃ、いよいよ日照りも本番かな」
 人気のない共同墓地には、色とりどりの蝶達が群れ集っている。鼻先をかすめる彼らをやり過ごしつつ、ヴォルグは出口への石畳に歩みを進めた。すっかり乾ききった風を受け、あちこちの献花がかさかさざわめく。
 ここにくると、やはり気が重くなる。久しぶりの訪問だから、明るく会いたいのはやまやまだ。が、いくらそう思っても、あの光景が蘇ってきてしまう。
「んんー、ふわあぁ」
 緑青の浮いた、出口のアーチをくぐったところで、ヴォルグは力いっぱいに伸びをした。頭からすうっと血の気が引いていき、やがてこめかみが熱くなる。人通りのなかで彼女の声が弾けたのは、まだそれが治まりきらぬうちだった。
「あれえ? ヴォルグじゃないの」
 首を振り向けたその先で、草色のスカートが翻る。リボンでまとめられた長い栗毛が、駆け足に合わせてさらさら揺れた。
「そんなとこで一体なにやってんのよ?」
「言わなくたって分かるだろ? ここをどこだと思ってるんだ」
「へえ、やっぱりかあ。剣も楯も持ってないから、そうじゃないかとは思ったのよ。でも、あんたが墓参りなんて、ちょっとぴんとこないじゃない?」
「はは、確かにそうかもしれないな」
 街から街へ、国から国へ。そんな長旅の商隊を、様々な危険から守りぬく。そんな護衛者にとって、戦いは日常茶飯事なのである。これほど墓参が似合わぬ職業も、そんなに多くはないだろう。
「だけど、お前こそ油売ってていいのかよ? さぼってるの見つかっちまって、職替え延期なんて落ちはなしだぜ」
「ちょっと待ってよ。私のどこがさぼってるって?」
 反動のつけられた細腕が、ぱんぱんの皮袋を差し上げた。半開きの閉じ口から、色とりどりの野菜や柔らかそうなパンが顔を覗かす。
「これ見れば分かるでしょ? 買い出しよ、買い出し!」
 彼女は名前をシェラといい、本業は自分と同じ護衛者だ。が、その旅の合間を縫っては、こうして酒場の給仕として働いている。
 法術の腕に加え、護衛の実績も一級品の彼女が、臨時雇いをする必要など本来まったくないはずだ。なのに彼女は自ら望んで、多忙な暮らしを送っている。
「それよりさ、この国って一体どうなっちゃってるの? このパンなんか、昨日より一割高くなってるのよ」
 透きとおった青い瞳が、袋のなかを睨めつける。憤懣やるかたない口調からして、売り子とやり合ってでもきたのだろうか。
「客を莫迦にしちゃってさ! まったく冗談じゃないわよね」
「そんなに怒りなさんなって。今年は日照りになりそうだから、少しくらいは仕方がないさ」
「市場でもそれとおんなじ説明されたわ。何年かに一度、こういう夏があるんですって?」
 呆れた口調もさもあらん。シェラははるか南の侯国、レフィタルの出身なのだ。対岸が見えないほどに広大なヌレイエフの泉、その中央にそそり立つ濃緑の巨大樹、さらには果てしなく続く深い森。そんな断片的な話だけでも、豊かで暮らしやすい土地なのだろうと想像がつく。
「これくらいならまだましさ。物の値段だって、それほど酷くは上がってないしね。いつもは、野菜なんてなかなか手に入らなくなるんだぜ」
「やだやだ。考えるだけでもぞっとするわね」
 風に靡く栗毛を押さえ、シェラはうんざりした表情を天へと向けた。
「さて、と。そろそろ店に戻らなくっちゃ。あんまり道草くってると、本当にさぼってると思われちゃうわ」
「じゃあ、店が引ける頃に顔出すよ。こっちの仕事の打ち合わせ、いつもみたいにするんだろ?」
「勿論よ。それじゃ、後でね」
 みるみる遠ざかった赤いリボンは、ほどなく人混みのなかへと紛れていった。それを笑顔で見送った、ヴォルグの身体が静かに回る。
 ――また顔見せに来るからさ。期待しないで待っててくれよ。
 頭を垂れ、暫しのあいだ瞑目してから、彼はその場を足早に立ち去った。

 大神殿の鐘の音が、平和な一日の終わりを告げる。空を駆け下りた太陽がほどなく姿を消してしまうと、街壁の向こうから冷たい風が吹きこんできた。
 この時期のガイゼルは、昼夜の気温差がかなり大きい。薄暮が消え去る頃ともなれば肌寒さすら感じるほどで、身体を縮こませた人々が忙しない足取りで家路を急ぐ。そんな彼らと入れ替わりに、ヴォルグは再び街に出た。近くの酒場で腹ごしらえをし、それからシェラの働く店へと向かう。
 葡萄酒で火照った頬を、撫でる冷気が心地よい。満天の星たちはいよいよその輝きを増しつつあり、降りそそぐ月光が足下を柔らかく照らしてくれる。
「ナゼルの店か。考えてみると久しぶりだな」
 知らず歩調が早まっているのに気づき、ヴォルグは小さな苦笑を浮かべた。前回も仕事の打ち合わせで赴いたから、なんと晩春以来ということになる。
 生まれ育ったこの街に、馴染みの酒場はいくつもある。だが、禿頭の主、ナゼルの店はなかでも特別な存在だった。取り立てて高級でも、また豪華でもないのだが、出される料理がことのほか口に合う。シェラに釘を差されていなければ、今でも通いつめていただろう。
「できるだけでいいからさ、店を変えて欲しいのよ」
 給仕姿を見られるのが、照れくさいということらしい。ナゼルに紹介したことを、その時は心底後悔したものだ。
 色あせた、しかし見事な飾り布が吊るされた扉の前で、ほどなくヴォルグの足は止まった。布地に縫いこまれた主の名前を、壁の角燈がぼんやり浮かび上がらせる。そしてその向こうから、微かに楽しげな賑わいが洩れでてきていた。
「へえ……。相変わらず流行ってるみたいじゃないか」
 さっそく扉を開いてみると、織物で飾られた店内はやはりなかなかの盛況だった。二十あまりの卓のうち片手分ほどが空いてはいるが、看板間際としては上出来だろう。
「よお、ヴォルグ! 元気だったか」
「あんまり顔出さないからよ、賊に殺られちまったかと思ったぜ」
 顔馴染みたちの呼びかけに笑顔で応えてみせながら、手近な席に腰かける。
「いらっしゃいませ。ええっと……、何になさいますか?」
 注文は見知らぬ娘が取りに来た。シェラとよく似た前かけに檸檬色の服、そして腰に巻かれた青い布帯、そのいずれもが真新しい。彼女が暇をとるということで、新しい給仕を入れたのだろう。
「赤を頼むよ。それと腸詰めを一皿」
「かしこまりました。それでは暫くお待ち下さい」
 娘の表情は最後まで強ばり、お辞儀もぎくしゃくとぎこちなかった。入ったばかりのようだから、それも無理はないところか。自分が彼女の立場だったら、きっとあの程度ではすまないだろう。
「さあて、我が相棒は、と」
 暗い店内を見渡せば、彼女は盆を片手に卓から卓へ、実に忙しく飛び回っていた。
「こんばんは。今日は何になさいますか?」
「お薦めは子豚のソテーです。とっても柔らかい、いいお肉が入ったんですよ」
 柔らかで愛くるしい物腰は、普段の彼女とはまったく違う。滑らかな身のこなしも、やはりさすがの一言だった。本業に関しては言わずもがなだが、給仕としても相当のものに違いない。あちこちの男性客からやたらと話しかけられていることが、なによりそれを証明している。
 たぶん彼らのほとんどは、給仕を離れたシェラを知らない。春に彼女と出会った時は、自分もやはりそうだった。いきなり仕事で一緒になって、ずいぶんと驚いたものである。ひょっとして双子の姉妹なのではないか? 給仕の時とのあまりの違いに、思わず疑ってしまったほどだった。
 シェラの両親は、レフィタルの温泉町で宿屋を営んでいたらしい。ところが、十年ほど前に起こった戦がそのすべてを奪っていった。泣きながら独りさまよっていたところを後に義父となる護衛者、ゼフィルに助けられたのだという。
 やがて成長した彼女は、迷わず義父と同じ道を選んだ。そして、護衛の旅の合間を縫っては、訪れた土地土地で臨時雇いをこなしてきた。給金の代わりとして、料理を教わるためだった。
 本業の蓄えでいつか宿屋を再建し、訪れた客にそうして覚えた料理を振る舞う。そんな夢を抱く彼女は、それぞれの仕事に並々ならぬ拘りを持っている。もはや、完璧主義と言ってもいいだろう。
 なにもそこまでと感じることも、正直なところなくはない。だが、そんな真剣さの裏側に、何人の違ったシェラがいることだろうか。酒場の客として知り合い、同業者として共に旅をし、そして仕事を離れた素顔に触れて、自分は彼女に惹かれていった。
「それにしても頑張ってるよな。お前、ほんとに大したもんだよ」
 好物の赤葡萄酒を含みつつその仕事ぶりを追いかけているうちに、夜はいよいよ更けきっていった。あれほど賑やかだった店内に、もう残っている客は一人もいない。
「どうしてこうなっちまうのかなあ。俺はもてなされる立場のはずなのに」
 食べかすを集めながらの呟きに、卓上の布巾が動きを止めた。
「さっきまではね。でも、もう看板は過ぎたんだから、今は仕事仲間でしょ?」
「おいおい。そりゃ護衛者としての話だろ?」
「だから、その話をするために急いでるんじゃない。ほら、さぼってないで片づけ片づけ!」
「さぼってるって、お前ねえ……」
 おんぼろ箒を差し上げて、ヴォルグは反撃を試みる。だが、おどおどとした呼びかけに、それは敢えなく頓挫した。
「あのお、失礼ですけど」
「え?」
 振り返ってみれば、あの新人娘がモップを片手に立っている。
「先輩、こちらは護衛のお仲間ですか?」
「そうよ。そういえば、まだ紹介してなかったわよね」
「ヴォルグだ、よろしくな」
「こ、こちらこそ。ル、ルファールです」
 ヴォルグが差しだした掌に、前掛けで拭われたそれが応えた。くりくりとした円い眼が、何度も瞬きを繰りかえす。
「まだ入って三日なんで、先輩には色々教えてもらってます」
「あんたね、こいつに愛想振りまいたってなんの得にもならないわよ。それに、教えた覚えなんてこれっぽっちもないんだけど?」
「だろうなあ。案外、お前の方こそ世話になってるんじゃないのか?」
「な、なんですってえ!?」
 激しく長髪を揺らしたシェラの、目尻がみるみるつり上がる。と、またもルファールの横槍が入った。
「そんなことありません! 先輩、本当に凄いんですよ。仕事ぶりを見てるだけでも勉強になるんです」
 接客の仕方や身のこなしにほとほと感心してしまったと語る、その表情は真剣だ。この程度の口論はいつものことだが、どうやら彼女の眼には違って映ってしまったらしい。
「早く、先輩みたいになりたいなあ。しばらく一人になっちゃいますけど、頑張って巧くなっておきますね」
「はいはい、期待してるわよ」
 呆れているのか照れくさいのか、振り向けられた微笑みをシェラは掌でさえぎった。
「それじゃ明日からの仕事のために、そろそろお家に戻りなさい。後はこいつと私でやっとくからさ」
「え? でも、それじゃあ」
「口答えなんて可愛くないわね。先輩の好意が受け取れないわけ?」
「あ、い、いえ! そんなことありません」
「それなら、ほら。ぐずぐずしないでさっさと帰る」
「……分かりました。それじゃ、お言葉に甘えさせていただきますね」
 名残惜しげな笑みを残して、彼女はモップを片付けはじめた。去り際に扉の前で立ち止まり、ぺこりと一礼してみせる。
「いい娘だねえ。お前の後輩には勿体ないな」
 ここぞとばかりに仕掛けたが、シェラは乗ってこなかった。代わりに呆れ返った表情が、ヴォルグの顔をじっと見上げる。
「あーあ。また始まった、か」
「ん? なんだって?」
「なんでもないわよ! それよりさっさと終わらせて、仕事の話はじめましょ」
 シェラはぷいとそっぽを向いて、再び卓を拭きはじめる。旅の行き先を帝都に決めて二人が家路に就いたのは、蒼く輝く満月がもう天頂を過ぎてからのことだった。

     ■

 ガイゼルの国都の街路図は、ある意味非常に特徴的だ。中央部を貫く街道沿いに外縁の石壁が入りこみ、街並みを東西に隔てているのだ。戦乱期の名残というのだが、現在の住人達にとっては迷惑なことこのうえない。
 相互の行き来を保つため、壁にはいくつもの門がある。そのなかで西地区最大のものが月の門だ。周囲の街壁からさらに一段高くなった巨大な石造建築物で、人や荷の往来がこの街で最も激しい場所である。その間を紙一重ですり抜けながら、ヴォルグとシェラは懸命の疾走を続けていた。寝つきが悪かったせいなのか、それとも眠りが浅かったのか、持ち慣れた剣や楯がどうにも重くて仕方ない。
「あ、あれほど念を押したのに、よくも寝坊してくれたわね!」
 掠れきった非難の声が、胸にぐさりと突き刺さる。
「そんなに怒るなって。さっきから、もう何度も謝ってるだろ」
「怒るわよ!」
 なめらかに靡く栗毛の向こうで、汗の滴が飛び散った。
「覚悟しときなさいよ。仕事取り損ねでもしたら、責任とってもらうんだからね」
「責任って言ったってなあ。そんなの、どう取ればいいんだよ?」
 苦りきっての問いかけに、しかしシェラは答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。
 空は昨日以上に晴れわたり、昼近くになって気温もどんどん上がってきている。そんななか、全力で長い距離を駆けてきたのだ。女性としても小柄なシェラに、それが堪えていないはずはない。
 こうして急いでいるのには、当然ながら理由があった。
 自分たちは通常、仲介屋を通して商隊からの依頼を受ける。彼らの元には日々新しい仕事が入ってくるが、美味しい話となるとそのなかのほんの一部だ。獲得競争はなかなか厳しく、受け手は開店早々に決まってしまう。それ故に朝一番で赴くつもりが、目覚めればとっくに約束の時を過ぎていた。
「あー! もういやっ!」
 延々待ちぼうけを喰わされた、彼女の怒りも当然だ。今回ばかりは、まったく言いわけのしようもない。
「ほら、もう少しだから頑張ろうぜ」
「え、偉そうに言わないで。元はといえば、あんたのせいでしょ!」
 門の真下を左に折れて、細い砂利道へ走りこむ。途端、人の流れはぱたりと途絶えた。散乱する生ごみを飛び越え、昼寝の野良猫をたたき起こして進んでいくと、ほどなくお目当ての仲介屋が見えてくる。まだ駆けだしの頃から、ヴォルグが世話になってきた店だ。
 それは周囲の民家に埋もれてしまいそうな木造平屋で、楯を型どった看板が扉口に下げられている。お世辞にも大手とは言えないが、親身に面倒を見てくれる店主、ダルアンを慕う者は多かった。
「うひゃぁ。つ、疲れたあ」
 両膝に手を突いたシェラが、苦しげな呻きを絞りだす。彼女はぐったりと頭を垂れて、丸めた背中を激しく上下させていた。無論、疲れているのはヴォルグも同じ。いくら力をこめてみても、膝の震えが治まらない。やむなく店の薄壁に、支えてもらうことにする。
 護衛者としては、なんとも情けない姿であった。できることなら、こんなところを知人に見られたくはない。だが、ぱたぱたと近づいた足音に、そんな望みはたちまち潰えた。
「先輩、おはようございます!」
 元気に声を弾ませたのは、誰あろうルファールである。
「護衛の時はやっぱりスカートじゃないんですね。でも、鎧姿もすごく似合ってて格好いいです」
 跳ねあげられたシェラの顔に、驚きの表情が広がった。が、半開きの唇から、言葉は欠片も出てこない。「下手なお世辞を言うな」とばかりに、掌を揺らすのみだった。
「き、奇遇だな。まさかこんなところで会うなんて」
「偶然なんかじゃありません。ナゼルさんにここを教えてもらって、朝からずっと待ってたんです」
「朝からだって? そりゃ悪いことしちゃったなあ」
「あ、どうか気にしないで下さい。私が勝手にしたことですから」
「どういうつもりだか知らないけどさ」
 乱れきっていた息も、なんとか落ちついてきたらしい。背筋をだるそうに伸ばしたシェラが、遅ればせながら会話に加わる。
「用件は手短に頼むわよ。どっかの寝坊助のおかげで、仕事探しがまだなんだから」
「ほんとですか、先輩!? じゃあ、まだ決まっていないんですね?」
「だから、これから探すって言ってるでしょ」
「ああ、良かったあ!」
 歓喜の声を弾けさせ、ルファールはぴょんと小さく飛び跳ねる。
「な、なによいったい。いきなり驚かさないでよ」
 肩をすぼめたシェラの非難も、彼女には聞こえていないようだった。胸元で合わされた掌に、そっと唇が寄せられる。
「あの、先輩、それにヴォルグさん。少しお時間をいただけませんか?ここじゃなんですから、そう……、祈りの道の広場ででも」
「あんたね、手短にって言ったの覚えてないの? だいたい冗談じゃないわよ。いま来た道をあんなとこまで戻るなんてさ」
「そこをなんとかお願いします。大事なお願いがあるんです」
 見開かれた円い眼は、みるみるうちに潤んでいった。思いもしなかったのだろう反応に、さしものシェラも激しくたじろぐ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なにも、泣かなくたっていいじゃない」
 狼狽えきった表情で、彼女はヴォルグを仰ぎみる。それに頷きで応えるまでに、さしたる時間はかからなかった。

 大神殿を囲む老木の壁が、彼方で風に揺れている。そのさらに向こうから、やがて昼を告げる鐘の音が聞こえてきた。
 噴水を囲む円形広場は、かなりの賑わいをみせている。露店はどこも行列で、並んだ長いすもぎっしりだ。着くのがもう少し遅かったなら涼しい日陰の確保はおろか、こうして座れすらしなかったろう。
「なるほどね。つまり、兄貴の隊のお守りをしてくれないかって、そういうことかい?」
「はい。正確には兄さんのじゃなくて、ベリオール商店のですけれど」
 腕を組んでの質問に、ルファールはようやく口元を緩めてみせた。哀れなほどだった声の震えも、どうやら収まってきたようである。
 ベリオールはかなり大きな部類に入る、名の通った穀物商だ。取引量に相応しく複数の馬車隊を有しているが、彼女の兄、アルベインは新進気鋭の商隊長としてその一つを任されているという。
 急ぎ帝都に赴いて、小麦の在庫を確保せよ。彼がベリオール直々の指示を受けてから、既に五日が経とうとしている。だが、懸命の準備にも関わらず、未だ出発の目途が立たないらしい。
「護衛者が集まらないそうなんです」
 さもあらん。同業者のこと故、およその事情は察しがついた。
 穀物を運ぶ商隊は、このところ盗賊の標的になっている。日照りの兆候が強まりつつある現在、彼らの持ち帰る小麦や豆は高騰の一途をたどるばかりだ。また、争奪戦の激化によって、買いつけの元手となる往路の積み荷も高価なものにせざるを得ない。盗人どもにしてみれば、往復どちらを襲っても外れる心配はないわけだ。
 確かに、狙われて当然の状況ではある。が、腕に自信のある者や報酬額で釣られる者など、それでもお守りのなり手はいるはずだ。そんな連中にさえ敬遠されてしまうのは、即ちベリオールの商隊が狙われやすいからである。襲撃される確率が、他店に比べて高すぎるのだ。聞けばアルベインの一行も、先日荷を捨てる羽目になったという。
「兄さん、すっかり落ちこんでしまっているんです。お酒をがぶ飲みするのを見ていたら、なにかたまらなくなっちゃって」
「事情はよく分かったけどさ」
 噴水のきらめきを見やったシェラが、長靴の足を組み替えた。さらりと払われた髪のすき間に、鋭くなった瞳が覗く。
「あんた、勘違いしてんじゃない? 私達は護衛者で、正義の味方じゃないんだからね。それにこっちの仕事に戻ったばかりで、いきなりそんなお勤めをしろっていうの?」
「……やっぱり駄目、でしょうか?」
「そうじゃないけどさ。私を雇おうっていうんなら、相応の報酬を上乗せしてもらうわよ。どう? あんたにそれが約束できる?」
「そ、それは……」
「でしょ? なら潔く諦めなさい」
「そう、ですよね」
 きっぱりとした拒絶を、ルファールは微笑みで受け入れた。が、さすがに瞳の落胆までは隠しきれない。
「まだ知り合ったばかりなのに、こんなお願いする方がおかしいですよね」
「付き合いの長さなんて関係ないわよ。私が言ってるのは、仕事に情は持ちこめないってこと。悪く思わないでちょうだいね」
「よく分かります。お時間取らせちゃって、本当にごめんなさい」
 深々とした一礼から、ヴォルグはたまらず眼をそらした。緩んだ口元のひくつきが、言いようもなく痛ましい。
「お仕事の無事を祈ってます。お身体に気をつけて、元気に帰ってきて下さいね」
「はいはい。言われなくたってそうするつもりよ」
「それじゃ先輩。私、これで失礼します」
 檸檬色の服を翻し、ルファールはゆっくりと踵を返す。その哀しげな後ろ姿に、ついに心のたがが弾けた。
「ちょっと待った」
 意を決しての呼びかけに、踏みだされかけた足がぴたりと止まる。
「……はい?」
「なんなら引き受けてやってもいいぜ」
「ちょ、ちょっと! あんた、なに言いだすのよ!?」
 顔を跳ねあげたシェラの叫びを、彼は突きだした掌で封じこんだ。あからさまな不満顔は敢えて無視して、きょとんとしたルファールを視線で促す。
「そ、それ、ほんとですか?」
「ああ、勿論さ。ただし、上乗せ分はきっちり払ってもらうけどね」
「え? で、でも、さっきそれは無理だって」
 ルファールのか細い声は、そこでぷつりと途切れてしまった。真意を計りかねているのだろう。眉間に深くしわをよせ、なにごとか必死に考えこんでいる。
「俺の家の片づけ」
「は、あ?」
「帝都に行ってる間にさ、部屋の掃除をしてもらう。そういう契約でどうだい?」
「それだけ? 本当にそれだけでいいんですか?」
「甘いな。自慢じゃないけど、うちの散らかりようは並じゃないぜ。それを綺麗にして、ついでに壁も拭いてもらう。もしかしたら、一日じゃ終わらないかもしれないぞ」
「やりますっ! 兄さんを助けていただけるなら、掃除くらいいくらでも!」
「はん!」
 天を仰いだシェラの口から、やがて小さな笑いがあふれだす。
「どういうつもりよ? まさか、あっちの仕事がらみじゃないでしょうね?」
「ば、ばか言えよ。それだったら条件なんかつけないさ」
 思わぬ話を持ちだされ、彼は慌てて手首を振った。シェラと同様に、自分もまた護衛者以外の顔を持っている。が、その内容は、決して公にはできないものだ。本来なら相棒であるシェラにすら、知られるべきではなかったのである。
「あはは! ただの臨時雇いの話でしょ。そんなに焦らなくたっていいじゃない」
 両手で腹を押さえつつ、シェラはそう話をぼかした。本気でばらすつもりなど、彼女もないに違いない。たぶん、勝手に話を決めたことへの仕返しだろう。
「じゃあさ、純粋に助けてあげようって、そういうわけ?」
「ああ、当たり前だろ」
 ほっとしながら頷いた途端、脇腹に肘の一撃がめり込んだ。
「……! いって!」
「女に甘いのもほどがあるわよ! いい、ルファール? 私が戻ってきてからも、買い出しは当分あんたの仕事だからね」
「そ、それじゃ、先輩?」
「仕方ないでしょ、今さら一人で仕事探すのも嫌だしさ。ただ覚悟だけはしときなさいよ。こいつの部屋の話、大げさでもなんでもないんだから」
 ルファールの表情が、たちまちぱっと輝いた。シェラにぱたぱたと走りより、その小柄な身体を抱きしめる。
「ありがとうございます!!」
「や、やめなさいよ! 人が見てるじゃない」
 もがくシェラの叫声を、しかし彼女は意に介さない。
「さあ、さっそく店に行きましょう。兄さんをご紹介しますから」
「あ、い、痛い! 痛いってば! 自分で歩くから離しなさいって!」
 実際のところ、どこまで知っているのだろう。ずるずる引きずられていく相棒の後ろで、ヴォルグはそんなことを考えていた。
 初めて共にした護衛の仕事で、シェラは自分の秘密に気づいた。そして「あんたの素顔が知りたくなった」と、相棒になることを申しでた。惚れた弱みで受け入れてしまったが、やはり断るべきだったのか。
 現在においても、彼女は詳しいことは何も知らない。いや、知らないはずだ。尾行られたことは何度かあったが、すべて途中で捲いている。雇い主との連絡にしても、悟られるようなへまはしていない。
 もう諦めたとばかり思っていたが、あんな話を持ち出すということは実はそうではないのだろうか。だとしたら、今度は本気で止めさせなくては。あの雇い主は、それほど甘い人物ではない。秘密を嗅ぎ回っている者を、いつまでも放っておいてはくれないだろう。
「う、腕がちぎれるうっ! こら、ヴォルグ! ぼうっとしてないでなんとかしてよ!」
 圧倒的な力の差に虚しい抵抗を続けつつ、シェラが半ば真剣な悲鳴を上げる。だが、残念ながら、今の彼にそれは聞こえていなかった。


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posted by omune at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作、制作 | 更新情報をチェックする
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