2000年07月28日

『 シアネのように 』3(文字拡大版)

 安定していた天候は、帰路が進むにつれて崩れていった。二日目の午後から雲が出はじめ、夜には小雨がぱらつきはじめる。時がたつにしたがって雨滴は大きく密になり、翌朝にはかなりの降りになっていた。
 ただよう乳白のもやをぬい、ヴォルグたちは宿泊予定の町へと急ぐ。が、雨とぬかるみに邪魔をされ、なかなかペースが上がらなかった。
 路傍には、粗末な小屋がぽつりぽつりと建っている。この付近の狩人が、休憩に使うものであるらしかった。が、さすがにこんな天気では、使われているものなど見あたらない。
「あはっ! やっぱり、いいことばっかりじゃすまないですねえ」
 皆に囲まれた馬上から、明るい声が響きわたった。ルファールに限った話ではない。悪天候をものともせずに、一行の雰囲気はなんら変わってなどいなかった。強いて相違点をあげるなら、フューリイの口数がそうであろうか。今もルファールのかたわらで、都の歴史を説明している。
「ねえ、ルファール?」
 それがやがてとぎれると、今度はシェラが口を開いた。雫がしたたるフードの奥で、馬上の後輩に微笑みかける。
「少しまじめな話をしようか?」
「……!」
 人形のように動かないまま、ルファールは瞳だけを彼女に向けた。
「はい。なんの話かはだいたい分かっていますけど」
 ようやく返されたうなずきに、今度はシェラが応えない。そんなじりじりさせられるやり取りを、ヴォルグは素知らぬふりで聞いていた。
「……ふうん。それなら話は早いわね。で? ほんとにお店辞めちゃう気なの?」
「あはは。兄さんったら、やっぱりしゃべっちゃったんですかあ」
 静かに脱がれたフードの下から、さばさばした笑顔が現れる。と、前をいく兄の背中が、たちまち小さく丸まった。
「はい、そのつもりです。楽しい思いでもたっぷりできて、やっと決心がつきました」
「止めるつもりはないけどさ。せめて、理由くらいは教えてくれない?」
「やだなあ、先輩。そっちもちゃんと知ってるんでしょ?」
「だからなに? 知ってるとしたらどうだってのよ?」
 背後の相棒を振りかえり、シェラはかすかに口元をゆるめてみせた。困ったような辛そうな、苦さを含んだ笑みだった。が、それはすぐにかき消えて、けわしい目つきが馬上を見すえる。
「私はね、ルファール。ちゃんとあんたの口から聞きたいの。後輩づらして甘えてくるなら、そういうけじめもつけなさいよね」
「……つけてるじゃないですか。だから、言えなかったんじゃないですか」
 ルファールは一歩も引こうとしなかった。ついぞ現したことのない反抗心が、声にも表情にも満ちている。
「私、先輩みたいに笑えない。先輩みたいに気がきかないし、お皿だってあんなにうまく運べない。このままだらだらつづけてたって、迷惑かけるだけですよ。私、そんなの嫌だから……、だから!」
「ばっかみたい。あんたってさ、ほんとになんにも分かってないのね」
 そっぽを向いた彼女のコートを、シェラは荒々しくひっぱった。むりやり己に向きなおらせて、邪魔だとばかりにフードをはずす。一向に弱まらぬ降りのなか、長い栗毛が広がった。
「みたいにみたいにって言う前に、もっと自分を見たらどう?」
「もういいです! 私のことなんかほっといて!」
 そっと触れようとしたシェラの手が、叫びとともに跳ねのけられる。
「……あ!」
 強烈な腕力をもろに受け、シェラは大きくふらついた。そして直後に異変が起こる。
 二本の白い光線が、シェラのかたわらを横ぎった。ヴォルグの眼にはそう見えた。激しいいななきに空気が震え、暴れだした馬が兄妹を次々と跳ねとばす。そこまでが、ほんの一瞬のできごとだった。
「きゃあああ!」
 誰の助けも間にあわない。ルファールはぬかるみに身体をはずませ、それきり動かなくなってしまった。
「お、おい! 大丈夫か」
 泥だらけになったアルベインが、はいずるように駆けつける。それをちらちらと見やりつつ、シェラは状況の把握を開始した。
 奇妙なうめきをあげながら馬はしばしふらふら歩き、やがて草はらに巨体を沈めた。見れば、長いつらら状の氷が二本、その脇腹をつらぬいている。
「水の法術 いったいどこから?」
「あそこだっ!」
 ヴォルグの指が示した先で、波打つ草原を男が走る。同時に前と後ろの二つの小屋から、武装した集団が現れた。住みかを踏み乱された鳥たちが、次々に空へ逃げ去っていく。
「ちょっと待ってよ! 私たちなんか襲ったって、大した儲けにならないでしょう?」
 張りあげられた呼びかけに、彼らは耳を貸そうとしない。が、シェラはそれでもあきらめなかった。
「今は戦いたくないの! 剣をおさめてくれるなら、有り金全部さしだすわ」
「説得してもむだですよ」
 歩みよってきたフューリイが、ぽんと彼女の鎧をたたいた。
「あの眼を見れば分かるでしょう? 彼らの狙いは金じゃない」
 ぽきぽき鳴らした両手の指を、彼は無気味にうごめかす。瞳に宿った冷たい光に、シェラの背筋を悪寒が走った。
「法術使いはあなた一人だ。あの時の約束、ちゃんとはたして下さいよ」
「言われなくたってそうするつもりよ。ねえ、アルベイン! その子、どんな様子なの?」
「あ、ああ、どうも気絶しているだけらしい」
「良かった……。それじゃ、いい? 絶対そこまでは行かさないから、へたにうろちょろするんじゃないわよ?」
 忙しないうなずきを確認し、シェラは迫りくる敵をねめつけた。数はこちらの三倍弱か。大きな得物を所持していない、法術使いらしき姿も数人見える。
「こいつらいったいなんなのよ? なんで襲われなくっちゃならないの?」
 舌打ちしてのつぶやきに、剣を抜きはなったヴォルグが答えた。
「すまん、シェラ。どうやら読みが甘かった」
「……? どういう意味よ?」
「あとでゆっくり説明するよ。だから、今は力を貸してくれ」
「もうっ! あんた、そういうのばっかりじゃない」
 栗毛を荒っぽくかきあげて、シェラは唇をとがらせる。が、小さなうなずきが返されるのに、さほどの時間はかからなかった。
「決まってるでしょ。これでも相棒なんだから」
 なめらかな旋律を背に受けて、ヴォルグが前方に走りでる。つづくフューリイの足取りは、まるで草原を疾走する野獣のようだ。短剣を奇術師よろしく回してみせて、ぎらりと瞳を光らせる。
「覚悟してくださいね。私は手加減が苦手ですから」
 倒れたルファールの楯となり、三人は襲撃者たちと対峙した。

「うう、ん……」
 ルファールは夢を見ていた。ナゼルの店に、初めておもむいた日の夢だった。
 半年ほど前のことである。兄の誕生日になにを贈るか。あれやこれやと迷った末に、彼女はそこでの食事を選んだ。ちょうど仕事を辞めたばかりで、高価なものには手が出なかった。
 そしてやってきた祝いの席は、彼女にとっても実に楽しいひと時だった。今では見なれてしまったが、飾られた数々の織物に彼女は感激しきりであった。そしてなにより、生き生きと働くシェラの姿に。
 まるでシアネのような人。それが第一印象だった。人はあんな表情で働ける。そして他人を力づけてあげられる。
 夢が壊れていくことに、くさくさしていた。笑顔を見るのが好きだから、人と接する時は無理をしてでも明るくふるまう。が、その裏側で、心は重たく沈みがちだった。
 シェラの姿を見ていると、そんな自分をちっぽけに感じた。彼女のようになりたいと、心の底からそう思った。だから次の仕事に給仕を選び、店ももちろんそこにした。
 店でのシェラは、とてもかわいく愛くるしい。仕事の技量はばっちりで、お客の評判も上々だ。そして、そんな彼女が、護衛者として広い世界を旅している。自分が夢みていたことを、ごく当たり前にしてみせている。
 ――先輩みたいになれるなんて、どうして思ったりしたんだろう?
 ぼんやり己に問いかけながら、彼女はまぶたを持ちあげた。と、灰色の空を背景に、なにかが頭上にかぶさっている。何度か焦点を行き来させると、それがアルベインの身体と分かった。
「あ、痛た……」
 そっと触れようとしたとたん、鈍い痛みが身体を走る。
 そうか、自分は落馬したのだと、彼女はすぐに思いあたった。急に激しく視界が流れ、空や草原がくるくる回った。背中に痛みを感じたところで、記憶はぷつりと切れている。
「兄さん?」
 彼の瞳は動かない。いったいなにを見ているのかと、痛みをこらえて首だけ回す。
「せ! 先輩!」
 傾いて見える大地を踏みしめ、シェラは見知らぬ男と相対していた。じりじりと間合いを取りあって、殺気の応酬をくりかえす。腫れあがり、髪の張りついた彼女の顔は、必死の形相に満ちていた。店でのそれとは、正反対の表情だった。
 顔だけではない。シェラはまさにぼろぼろだった。コートの合わせめが大きくはだけ、泥まみれの鎧や服がのぞいている。左腕はぶらりと下がり、踏みだす足どりがおぼつかない。
「な、なに、これ?」
 いったいどういうことなのか、ルファールがそれを理解するより早く、男の足が大地を蹴った。二人の距離はたちまち詰まり、直後にシェラの身体がくの字に曲がる。
「がふっ!」
 口から赤いものを散らした彼女は、二、三歩よろよろと後ずさり、それでもなんとか踏んばった。が、ついにその膝ががくりと折れて、ぬかるみのなかに倒れこむ。うつ伏せになった小柄な身体が、追撃の蹴りに転がった。
 シェラたちの戦いは、いよいよ終盤を迎えていた。いくら数の差があろうとも、双方の技量はあまりに違った。敵の多くはヴォルグとフューリイに斬り倒され、シェラの法術の的となり、あるいはその鬼神のような戦いぶりに圧倒されて逃亡し、残りは片手ほどになっている。が、いよいよあと一息という段になって、三人はかなりの苦戦を強いられていた。
 技量の低い者に数で攻めさせ、敵に疲れを蓄積させる。そんな意図には気づいたものの、ルファールたちが動けない以上、あえてのるしか道はなかった。
 後方のシェラを襲ってきたのは、がっしりした体格の拳術使いだった。無論ヴォルグとフューリイが防ぐべき状況だったが、彼らとて残りの相手で精いっぱいの状況だった。
 強力な術であればあるほど、ふるうには相応の時間がかかる。直接敵と相対すれば、当然ながら分が悪い。
「……う」
 腹に胸に顔面に、シェラは数えきれないほどの打撃を受けていた。意識がにごり、視界がぼやける。四肢が重く、握ったナイフがまるで鉛の塊のように感じられた。
「手こずらせる」
 吐きかけられた唾を、彼女は拭うことすらできない。奪い取られてしまったナイフが、男のベルトに挟みこまれる。
「ま、待ってくれ! 俺はどうなってもかまわない。だからこいつは、妹は見逃してやってくれ」
 アルベインが上げた悲鳴に、男はためらいを隠さなかった。表情をくしゃくしゃに歪めてみせて、拳をぶるっと震わせる。が、それも、長くはつづかなかった。
「許せよ」
 低い声でそれだけ告げて、彼は殺気をよみがえらせる。と、踏みだされたかけたその足に、シェラが腕をからみつかせた。
「行かせない。絶対に行かせないから」
「こ、こいつ、まだ……」
 膨れあがった顔面を、激しい足蹴りが何度も襲う。が、靴底で肩を踏みにじられても、ずるずると泥水のなかを引きずられても、彼女は力をゆるめない。
「離せ! 離さんか!」
 男が大きくふらついたのは、その叫びが終わるか終わらぬかのうちだった。
「先輩!」
 草原を駆けてきたルファールが、勢いのすべてをぶつけたのである。大きく崩れたバランスを、動かぬ足は戻しきれない。彼は切り倒された巨木のように、草葉のなかへもんどりうった。
「う……、わああああっ!」
 言葉にならない叫びを発した、シェラの反応は早かった。しぶきを上げつつ飛びおきて、握った泥を投げつける。
「く、くそっ! 眼が」
 まだらの顔を拭う獲物に、彼女はそのまま襲いかかった。しがみつくように抱えた足を、身体全体で跳ねあげる。そして、転がりもがく男の腰から、奪われたナイフを抜きとった。
「こんの野郎おおおっ!」
 シェラにためらう様子はなかった。脈うつ首にあてた刃を、渾身の力で引きよせる。たちまち生温かい霧が噴きあがり、彼女の顔を真っ赤に染めた。
「あ、い、いやああああああ!」
 すべてを目の当たりにしたルファールの、高く長い悲鳴があがる。彼女は口をおおって立ちつくし、そして意識を失った。

 ほどなく戦いは終わりを告げた。彼らは近くの小屋を借用し、そこでルファールの目覚めを待った。すでに暗くなりはじめているうえに、みな傷と疲れでぐったりである。馬を失ったこともあり、野営となるのもやむなしだった。
 石組みの暖炉で炎が燃える。ずぶぬれになった彼らにとって、火が使えることはありがたかった。濡れた服を着替えてしまえば、寒さを感じることはない。
 丸太の椅子に腰かけて、ヴォルグは相棒の横顔を見つめていた。ぬらした布を押しあてられた、赤黒い腫れが痛々しい。傷の手当てはしたものの、そこまではとても手が回らなかった。
 食事をすませたフューリイは、となりの小屋へと出かけていった。命を奪わず捕らえた敵を、そこに閉じこめてあるのである。
「そんなに時間はかかりませんよ。こういうことには慣れてますから」
 狙いと雇い主を白状させる。ヴォルグに頼まれるまでもなく、そのつもりだったと彼は笑った。
「さむい……」
 ルファールはとうに意識を取りもどしている。が、その仕草や振るまいに、いつもの明るさや元気はなかった。
「やっと目が覚めたのね? 良かったあ」
 つい先刻のことである。触れようとした指先から、彼女は「ひっ」と身体を逃がした。もっとも恐れていたことが、現実となった瞬間だった。
「あ、ご、ごめんなさい。せっかく助けてもらったのに……、ごめんなさい先輩」
 かすれきった謝罪の声に、シェラはてのひらを揺らしただけだった。そしてずっと壁を向いたまま、己の影と向きあっている。
 あまりに甘い判断だったと、ヴォルグはひどく後悔していた。フューリイはおそらく、予想通りの顛末を聞きだしてくるだろう。襲撃者たちの狙いが命そのものだったとすれば、欲しがりそうなのはたった一人だ。
「別にあんたが落ちこむ必要ないわよ」
「……!」 
 振りあげられた視線の先には、おだやかな相棒の笑いがあった。
「細かい事情は知らないけどさ、どうせあいつが絡んでるんでしょ? あんた自身も驚いてたし、だったら仕方ないじゃない」
「お、お前……」
「隠し事したのはむかつくけどね。まあ、いい方に思ってあげるわよ。だからほら、そんなにうじうじしなさんなって」
 ヴォルグの額を指ではじいて、彼女はくるりときびすを返す。静かに歩むその先で、ルファールが毛布にくるめた身体を起こした。
「どう? これでよおっく分かったでしょう? あんたの先輩は、あんたが思ってるほど立派でもかっこよくもないってことが」
 血糊の残った髪をかき上げ、シェラはなめらかに言葉をつむいだ。
「懐いてくれるのは嬉しいよ。それに正直、気分も良かった。けどね、ルファール。いつも言ってることだけど、店での振るまいは演技なの」
 うつむいてしまった後輩が、小さく左右に首を振る。と、彼女はくすりと笑いを挟んでみせて、同様の仕草で否定を返した。
「あんたがなんて言おうとね、あれは技術にすぎないわ。もちろん、お客さんだってそれを知ってる。あの人たちにとっての私は酒場のなかだけの存在だし、私にとっての彼らもそうよ。いくら笑ってみせたってそれは店のなかでだけ。要は偽物……、物語のなかのシアネと同じね」
「そんなこと、ありません。だって先輩は……、あの晩に見た先輩は」
 つぶやきを絞りだす眼前に、人さし指が立てられた。しばし二人の会話はとぎれ、炎に薪がはじける音が急に大きく聞こえだす。
「ねえ、ルファール? 本物のシアネを見てみてさ、あんた確か言ってたわよね。想像してたより、ずっとずっと綺麗な鳥って」
「……はい」
「私とあんたもそれに似てるの。あんたは私とは全然違う。だって、すっぴんでお客さんと向きあってるもの。お客が喜べばあんたも喜ぶ。満足しなけりゃ哀しがる。そんなこと、絶対私には真似できない。なにせ素直じゃないもんね」
 ルファールはなにも答えなかった。毛布の上で合わせた両手を、じっと見つめるのみである。
「分からない? 私はあんたにはかなわないのよ。今はどうだか知らないけれど、いつか必ずそうなるわ」
 彼女は言った。ルファールが非番の日には、同じ問いかけを何度もされると。答えを聞いての落胆ぶりに、何度もプライドを傷つけられたと。
「作り笑いや歩き方や、それにお皿の運び方だっけ? そんなのは経験でどうにでもなる。だけど、それだけじゃ覚えられないものを、あんたはしっかり身につけてるの。だから、ね? もっと自信を持ちなさい」
 薄い木床に膝をつき、シェラは互いのてのひらを重ねあわせる。その姿にヴォルグは彼女の新たな一面と、そして過去のだんらんを垣間みていた。

 数日つづいた雨もやみ、夜空には星々の姿が戻ってきている。
 居間から突きだしたバルコニーで、ベルディアはおだやかな風をあびていた。妻や子どもたちは、寝室でとうに夢のなかだろう。夕食後の語らいを終えたのち、仕事が残っているからと彼は一人ここに残った。
 青ざめた光が眼下の庭園を照らしだし、吹きあがってくる風が虫たちの歌を運んでくる。だが、ベルディアにそれらを愛でる余裕はなかった。
 刺客たちをさしむけて、すでに五日が経とうとしている。が、いまだに報告はもたらされない。
 従わせることが可能ななかで、最高の護衛者たちをさしむけたのだ。人数もはるかに多いのだから、失敗など絶対にあり得ない。自分を安心させるのに、彼は必死になっていた。が、そのたびに心のなかで声がする。「それならどうして戻ってこない?」と。
 やらなければこちらがやられる。数年前、ルーデンスが旅の途中で斬殺されてしまったように。
 若き日の罪業が許されるのなら、それを受け入れるべきとも思う。が、今の自分には愛する妻と二人の子がいる。きっと、彼女らの命すら、復讐者は奪おうとするだろう。
「しかたない。また酒の力でも借りるとするか」
 忌々しげにつぶやいて、ベルディアはガウン姿のきびすを返した。明日は大切な商談が待っている。無理にでも休んでおかなければならなかった。この地方に伝わる銘酒は、火がつくほどの酒精を含む。二杯も呑めば、ぐっすり眠らせてくれるだろう。
 ぶ厚いカーテンを払いつつ、ベルディアはじゅうたん敷きの居間へと戻った。テーブルに置かれたろうそくが、壁を赤く染めている。と、そのすみで、三つの人影がゆらりと揺れた。
「そ、そんな」
「よお。お邪魔してるぜ」
 ヴォルグが送った冷たい笑みに、彼は小さな悲鳴をもらした。あたふた逃げ場を求める視線を、フューリイとシェラがすぐさまさえぎる。
「わざわざ戻ってきた理由はさ、説明するまでもないわよね?」
「しらをきっても無駄ですよ。すべて彼ら自身から聞きましたから。脅したり金でつったり……、ずいぶん大あわてだったようですね。そうそう、一部はクルーニス殿の私兵であるとか? どうりでなかなか手強いわけだ」
 ベルディアは言い逃れようとしなかった。硬く唇を噛みしめた、その表情におびえは見えない。灰色がかった瞳のなかに、ヴォルグの姿が映りこむ。
「どうして、黙って行かせなかった?」
 ベルディアの頬に残った傷を、鋭い剣先がゆっくりなぞった。
「分かってくれなかったのか? 今の方が大切だって、俺はあんたに言ったんだ」
「……信じられるわけがあるまい。ルーデンスをやったのはお前だろう?」
「ああ、そうさ。あの時はこれっぽっちも迷わなかったよ。俺は、そのために護衛者になったんだしな」
「死罪になったとばかり思っていたが、まさか我が家を訪ねてくるとは。まったく運命とは皮肉なものだ」
 実際、そうなるところであった。なにしろ、町なかでいきなり斬りかかっていったのだから。
 ヴォルグはすぐに捕らえられ、冷たい地下牢に放りこまれた。ルーデンスもまた有力な商人だったから、釈明など誰も聞いてくれはしなかった。ただ一人、突然牢にやってきた、将軍リュティスを除いては。
「殺すがいい。お前にはそうする権利があるからな」
 長い長い合間をはさみ、ベルディアは脱力したように膝を落とした。
「だが、この通りだ。あいつらは……、妻と子どもたちは勘弁してやってくれ」
「へええ。ずいぶんと虫のいい話じゃないの?」
 丸まり震える背中の上から、シェラが軽い調子の問いをあびせる。しかし、そんな声色と対照的に、表情は激しい怒りに燃えていた。
「ヴォルグの家族は遊び半分で殺しておいて、自分は許してもらおうなんて。それじゃ道理が通らないでしょ? それにさあ……」
 刹那、硬いブーツのつま先がベルディアの脇腹にめり込んだ。
「ぐ、はっ!」
 ぐらつく彼の襟元を、痣だらけの手がつかみとる。それをぐっと引きあげて、シェラは鋭く平手をみまった。
「あんたはあの子にまで手を出した! 罪がないのはあの子も同じよ。ただ、旅をしたかっただけなのに。ただ、シアネを見たかっただけなのに。それをよくも! よくもやってくれたわね!」
 何度も何度もくりかえし、シェラはてのひらを往復させる。リズムを乱しはじめた彼女の腕を、やがてヴォルグがぎゅっと押さえた。
「だめっ! まだよ!」
「それくらいにしとくんだ。あちこち痛みが残ってるんだろ?」
「でも……。でも!」
「いいから。後は俺に譲ってくれよ」
 額をこつりと合わされて、上がりぎみの息がさらに乱れる。後退をうながすヴォルグの瞳に、彼女は渋々したがった。
「あんたを殺すつもりはないさ。優しい奥さんやガキどもに免じて、このまま素直に帰ってやるよ。けど……、これだけは言っとくぞ」
 脇の下へと手を入れて、彼はベルディアを立ち上がらせた。そして、目にもとまらぬ素早さで、拳を顔面に叩きこむ。ベルディアはふわりと宙に浮きあがり、テーブルの上を転がった。
「また俺や仲間に手を出してみろ。その時は絶対に容赦しない。友人思いの領主さんにも、きちんと伝えておくんだな!」
 厚い扉の向こうから、誰かがぱたぱた近づいてくる。
「あなた? いったいどうしたの? ねえ、すごい物音がしたけれど?」
 不安げなマイアの声色は、ほどなく高い悲鳴に変わった。腫れあがった顔から鼻血をたらす、夫の姿を見たからである。だが、彼をそんなめに合わせた輩は、 すでに窓から逃げ去った後だった。
 ベルディアが襲われたとの報は、町を風のように駆けぬけた。だが、物的損害が皆無だったことに加え、ベルディア自身の主張もあって、結局大がかりな追撃は行われなかった。
「無関係な者が血を流す必要はない」
 伝えられたそんな台詞に民衆たちは感動し、ベルディアの評判はますます上がっていったのだった。

     ■

 ヴォルグたちが都へ戻ってきたのは、その数日あとのことだった。五人ではなく、三人での帰着である。宿でルファールたちと落ちあうはずが、そこに彼女らの姿はなかった。妹の体調が優れないので、通りがかりの隊商に同行させてもらうことにした。そんな伝言を、宿の主人が伝えてくれた。
 あの朝集合した草原を、夕日が赤く染めている。たたずむ彼らの周囲では、最後に残った隊商が遅い検閲を受けていた。閉門の鐘が怖いのか、早く身体を休めたいのか、馬も隊員たちも落ちつかない。
「どうする? 挨拶の方すませておくか?」
 そんなヴォルグの問いかけにシェラはしばし考えて、それから首を左右にふった。
「それは明日にしておいて、今夜は一杯つきあわない?」
「酒かあ? お前から誘うなんて、どういう風の吹きまわしだよ」
 シェラはさほど酒に強くない。呑みかわしたこともあるにはあるが、そのほとんどは食事がてらだ。
「まあ、いいじゃない。まだ懐にも余裕があるし、勘定は私が全部もつからさ。ね、よければフューリイも一緒にどうかな?」
「うーん、残念ですがご遠慮します。ちょっと寄っていくところがあるもので」
「そう? それじゃここでお別れね。また一緒になることもあるだろうけど、その時はどうかよろしく頼むわ」
「はい。色々とありましたけど、みんないい経験になりました。いつかまた、こんな旅ができるといいですね」
「意外ねえ、あんたがそんなこと言うなんて。でも、私はこんなのこりごりよ」
 ははっと苦笑をもらしてみせて、フューリイは草原をかけていく。その背中が門の向こうに消えるまで、二人は肩を並べて見送った。
「さあ、今夜は呑むぞお!」
 身体をぐっと伸ばしたシェラが、茜に染まった空を見あげる。そしてそんな宣言どおりに、その夜の彼女は大いに荒れた。
「遅いわよお。エール、さっきから頼んでるのにい!」
 喧噪にあふれた酒場の隅で、シェラの拳が突きあげられる。脇を行きすぎた給仕娘が、あきれた視線をちらりと向けた。
 テーブルには同形の杯が何個もならび、あるいは横倒しになっている。そこに入っていた多量のエールは、すでにシェラの胃袋のなかだった。
 はじめて入ったこの店は、ナゼルのそれよりはるかに広い。内部は吹きぬけ構造になっており、回廊状の二階にもたくさんのテーブルがならんでいる。そのほとんどは埋まっていたが、ざっと眺めてみた限り見知った顔はいなかった。
「もういい加減にやめとけよ。朝になってから後悔するぞ」
 そんなヴォルグのたしなめは、しかし完全に無視された。
「なあによお、あの眼。まったく、しつけがなってないったら」
 ぶつぶつ文句を言いながら、シェラは冷えたソーセージを口へと運ぶ。
 圧倒されるヴォルグを前に、彼女はひたすら食事をほおばり、そして次から次へとエールをあおった。店が看板になるまで二人は結局そこにいて、勘定はすべてヴォルグの払いとなった。まだまだ呑むのだと言いはるシェラが、財布を出さなかったからである。
「乗り心地悪いい……。お、おろしてえ」
「おいおい、またかよお」
 背負った肩ごしの訴えに、ヴォルグは嘆息しつつ天をあおいだ。
 少し進んでは休憩し、公共の井戸で水を飲む。さらには見知らぬ家の便所を借りる。そんな状態だったから、彼女の家までの道のりは実距離以上に遠かった。そうしているうちに、酔いも落ちついてきたのだろうか。ヴォルグの肩に頬をのせ、彼女はようやく静かになった。
 上弦の月もいよいよ高く小さくなって、街は静けさに包まれている。草の香りを含んだ風が、ほてった身体に心地よかった。
「ねえ、ヴォルグう。なんでこんな風になっちゃったのかな?」
 耳のすぐかたわらで、シェラがかすれた疑問をつむぐ。眠ってしまったのかと思っていたが、どうやらそうではなさそうだった。
「あんたと知りあってこの街に来てからさ、私どんどん弱くなってく。これくらいのことなんて、前はへっちゃらだったのに。なのにどうしてなんだろう? あんたのせい? 私のせい? それともあの子やアルベインのせいなのかなあ?」
「違うよ、シェラ。それは違う」
 静かに向けられた微笑みを、うるんだ瞳が凝視した。歩みの上下動に身をまかせ、彼女はつづきを待っている。
「弱くなったってわけじゃない。きっと、歳を食ったっていうことさ」
「ひ、ひっどおい! どうせ私はおばさんですよおおっだ!」
「おいおい、早合点するなって。そうだな……、抱えてるものが多くなったっていうのかな。お前も……、俺もね」
 満天の星を見上げつつ、ヴォルグは数年前の己を思う。もしもあの頃だったなら、迷わず斬りすてていただろう。しかし、シェラという存在が、ルファールという存在が、アルベインという存在が、そしてベルディアの家族の存在が、殺意のいざないをかき消した。
「お前はほんと立派だったさ。全然弱くなんかあるもんか。それに……、そう言えるお前が俺は好きだよ」
 彼なりに思い切っての一言だった。が、シェラからは、なんの反応も返ってこない。不思議に思って首を回すと、彼女はまぶたを閉じていた。試しに肩をゆすってみると、頭が左右にぐらぐら振れる。
「お疲れさん。久しぶりの我が家でゆっくり休めよ」
 送ってやったねぎらいに、もちろん寝顔は応えなかった。そしてその直後、思いもしなかった災難が彼を襲うことになる。
「う、わっ! お前、寝ながら吐くなよなあ」
 すっかり寝静まった城塞都市に、ヴォルグの悲鳴が響きわたった。すえた臭いをこらえつつ、彼は下町の路地を疾走していく。一刻も早く、我が家で服を着替えたい。全身べとべとにされた彼に、もはやシェラを送り届ける余裕はなかった。

 夜が深まるのを待って、フューリイは主への報告におもむいた。
 若き将軍、リュティスの屋敷は東地区の最深部、ガイゼル城のほど近くにある。職務から言えば当然ともいえる一等地だが、敷地の広大さに比べて建物の造りはさして豪華なものではなかった。空いた土地には森さながらに果樹が植えられ、そしてその一角に、地下道で墓地とつながれた小さな木造平屋があった。
 その一室で着替えをすませ、主の暮らす母屋へ向かう。夜陰に包まれた小径を行くと、虫たちが大合唱で迎えてくれた。
「実に見事なできばえですねえ。まるで今にも空に飛びたちそうだ」
 ソファーに身体を沈めたリュティスが、手にした剥製をしげしげ見つめる。はおったガウンの紅に、鮮やかな青色が映えていた。
「で、どうでした? いい旅になりましたか?」
「はあ、彼らにとっては分かりませんが……」
 視線を動かさぬままの問いかけに、対座したフューリイは苦笑で答えた。
「個人的にはいろいろと得るものがありました。リュティス様に言われたことが、いくらかでも理解できたような気がします」
「はて? いったい何のことでしょう?」
 黒いくちばしに口づけし、リュティスは話を受けながす。子どものような振るまいを彼が本気でやっているのか、それともとぼけているだけなのか。長年仕えているフューリイにも、時に分からなくなることがある。
「出発前におっしゃったじゃないですか。私はその、見境なく殺しすぎると」
「ああ、そういえばそんなことも言いましたかねえ」
「それだけですか? ……ひどいなあ」
「まあまあ。分かったのならそれでいいじゃないですか」
 リュティスは剥製を頭上に持ちあげ、それから右に左にとすべらせはじめた。背に束ねられた金髪が、動きにあわせて左右にゆれる。
 稀少な品も、彼にかかってはまさしく高価なおもちゃでしかない。まるで生きているかのように柔らかな羽毛も、そこに宿る鮮やかな青色も、すぐに痛んでしまうのだろう。シアネの行く末を案じ、フューリイは虚しさを禁じえなかった。
「ところで、ルファールというのはどんな娘でした?」
「な、なんです、いきなり。なにをお聞きになりたいんでしょう?」
「べつに。ただ、言葉通りのことをです」
 そっけない言い回しと裏腹に、表情は好奇心丸だしで輝いている。まったく困ったご主人様だ。手つかずだったワインを含み、彼は渇いた喉をうるおした。
「……いい娘です、とても。明るくて優しくて、頭が良くて」
「そうですかそうですか。では、どうです? もしも君が気に入ったのなら、いっそ交際でも申しこんだら?」
 身を乗りだした主の前で、フューリイの背筋がえびぞった。気管に唾が飛びこんだのか、胸をたたいて激しく咳こむ。
「ば、ば、ばかを言わないで下さい! そんなこと許されるわけがないでしょう?」
「どうしてですか? 私には、恋人どころか妻と息子がいますけど? まずいですかね、そういうのって」
「あ、い、いえ。決してそんなつもりでは……」
「それなら、いいじゃないですか。君はねフューリイ。もっと色々な世界を見るべきですよ。まあ、そうさせてやれないのは、私の責任なんですけれど」
 リュティスがたたえた微笑みは、その雰囲気を変えていた。空色の瞳がすまなげに、若き兵隊の顔を見つめる。
「お心づかい感謝します。だけど、やっぱり彼女はだめですよ」
 ぽんと膝をたたいてみせて、フューリイは柔らかなソファーを離れた。
「あまりにもいい娘すぎて。私にはとてももったいなさすぎます」
 西へと向いた窓を開くと、厚いカーテンを夜風がゆらす。木々の向こうにいくつもの屋敷がならび、二階のこの部屋からでもあまり見通しがいいとは言えない。
「それより……、お尋ねしてもよろしいですか?」
「ええ。なんなりとどうぞ」
「ベルディアという男のこと、はじめから御存知だったのではないですか? あの町にいるということもヴォルグさんとの関係も知っていて、だから私を行かせたのでは?」
 自分の役割は、ヴォルグを守ることだったのだろう。そう、フューリイは考えていた。そして、伝えられぬまま行かされたことに、わずかながらも不満があった。
「物事にはね、フューリイ君。様々な側面があるものですよ。真実は決して一つじゃないんです」
 いかようにもとれる答えを返し、リュティスは剥製を頭上にかかげた。この後、ベルディアとクルーニスが彼の有力な支援者となる、いやならざるを得なくなることを、フューリイが知る由はもちろんなかった。そして、ヴォルグに剣術の基礎を授けた男が、主の恩人だということも。

 鋭いアララト山系の稜線が徐々に闇から切りはなされ、やがてまばゆい逆光に浮かびあがった。漆黒から藍、そしてほのかな桃色へと、大空が鮮やかな階調に染めあげられる。気の早い鳥たちがやかましくねぐらを飛び去ると、ほどなく城塞都市に朝日がさした。
 家々の窓から朝食の香りがただよい、ほどなく急いた足音があちこちの通りに響きはじめる。それが主婦たちの挨拶に変わり、たくさんの干し物が風にはためく頃になって、ようやくヴォルグの部屋の窓は開いた。
「あー、やっと調子が出てきたわあ」
 ベッドの上にあぐらをかいて、シェラは紅茶を一口すする。
「だけど、あいも変わらず汚い部屋ねえ。ほこりっぽいし、男臭いし、おまけに足の踏み場もないし。我ながら、よくもこんなところで眠れたもんだわ」
「おいおい。あんな目に遭わされたうえに、俺は床で寝たんだぞ」
 昨夜のヴォルグの災難は、部屋に帰りついてからが本番だった。シェラを着替えさせるため、隣室の婦人をむりやり起こす。その後彼女をベッドに寝かして共同井戸まで洗濯に出かけ、帰ってきてからは二人分の鎧の手入れだ。ようやく寝ころぶことができた時には、薄い壁ごしに鳥たちのさえずりが聞こえてきていた。
「それもこれも、止めるのも聞かずにがばがばがばがば呑みまくるからだろ?」
 腫れぼったい眼ににらまれて、シェラは「う゛っ」と言葉につまった。寝癖のついた栗毛をゆらし、都の街なみへ視線を逃がす。
「だ、だからあ。最初にそうするって言ったじゃないよ」
 窓を横ぎるロープを使って、昨日の服が干されている。それをしばし見やったすえに、彼女は合わせた両手に額をつけた。
「……ごめん。悪いことしたって反省してる」
 小さくなって謝られると、ヴォルグもそれ以上は責められない。
「おわびの印って言ったらなんだけど、部屋の掃除でも手伝うからさ。二人でぱぱっとやっちゃいましょうよ」
 二人がかりということと、なによりシェラの奮闘のおかげで部屋はみるみるうちに広さを増した。足下は綺麗さっぱりかたづいて、積もっていたほこりもすでにない。久方ぶりに見る床が雑巾でみがかれ油を引かれ、艶と輝きを取りもどしていく。
「もう、こんな時間かあ。さすがにちょっと手こずったわねえ」
 ぴかぴかの窓枠にもたれかかって、シェラが街壁に沈み行く夕陽を見つめる。彼女は後ろを振りむかぬまま、ベッドで寝ころぶヴォルグに告げた。
「今夜、店が引けた後でナゼルに会うわ」
「ああ……。色々考えて決めたんだろうし、今さら反対する気はないさ」
 勤める店を変えるつもりだ。彼女がヴォルグに打ちあけたのは、一昨日の晩のこと。野営の食事のすぐあとだった。
 気まずいからだと彼女は言った。知られたくない者に知られた時は、いつもそうしてきたのだと。店で顔を合わせるたびに、ルファールも自分もあの戦いを思いだすに違いない。それではお互いにやりにくかろうと。
「ごめんね、せっかく紹介してもらった店なのに。でも、ほら。これからは、いつでも好物にありつけるじゃない?」
 苦笑を返すヴォルグの横へ、彼女は静かに腰かけた。そして寝ころんだ身体に被さるように、肩の向こうへ腕をつく。
「お、おいおい……」
「しいっ。大切なことだから黙って聞いて」
 まっすぐ垂れた栗毛の先が、動揺の表情をふわりとなでる。
「もしもよ? もしも私がレフィタルに……」
 瞳をうるませての問いかけは、しかし紡ぎきられる前にぷつりと切れた。廊下の床がどたどた鳴って、まるで弾けとぶように扉が開く。
「あーっ! やっぱりこっちにきてたんですね?」
 息せききって現れたのは、給仕姿のルファールだった。言葉を失う二人の間を、明るい笑顔が行き来する。
「お帰りなさい、ヴォルグさん」
「あ、ああ。ただいま」
「先輩、先に戻っちゃったりしてごめんなさい」
「そ、そんなのどうでもいいけどさ。あんた、いったいなにしに来たの?」
「やだなあ。先輩を連れにに決まってるじゃないですか」
 スカートとエプロンをひるがえし、彼女はかろやかにシェラへかけよる。汗の滴が二つぶ三つぶ、みがきたての床で飛びちった。
 先刻、フューリイが帰着を伝えにきてくれた。乱れた息に挟ませた、それが彼女の説明だった。
「なのに、いつまで待っても来ないんですもん。買い出しも掃除も、とっくに終わっちゃいましたよお?」
 とにかくシェラの自宅に向かってみたが、着けば主が戻った気配などない。そこで、もしかしたらとこちらに回ってみたのだという。
 ナゼルも首を長くして待っている。だから、早く仕事に行こう。そんな後輩のいざないに、シェラは困った表情を返してみせた。
「それなんだけどさあ。実はあんたにもナゼルにも悪いんだけど……」
「待って! その前に私の話を聞いてください!」
 たちまち絡みあった視線の長さを、ルファールは静かな足取りで縮めていった。
「あれからずっと考えて、それでやっと決めました。私、やっぱりお店辞めません。だから、先輩ももっと自信を持ってください。自分のこと、偽物だなんて言わないでほしいんです」
「ちょっとちょっと、どうしてそういう話になるの?」
 彼女がフューリイから聞かされたのは、帰着の知らせだけではなかった。が、それをシェラが知るよしはない。
「あんたにどう見えようと、それでどう思おうと、私のことは私が一番分かってるわよ」
 彼女は乾いた笑いを声に含ませ、首を大きく左右にふった。が、あわせて揺れる両腕を、そこでルファールがいきなりつかむ。
「……きゃ!」
 かすかな悲鳴を気にもせず、彼女はシェラを引きよせた。くりくりした眼が険しくなって、やがて怒りをほとばしらせる。
「私をばかにしないで下さい! どうしてそんなこと言うんです? なににびくびくしてるんですか? 人を子ども扱いする前に、自分がしっかりして下さい!」
「なんですって? あんた……、誰に向かって言ってるの?」
 青い瞳にねめつけられても、ルファールはまったく怯まなかった。視線をそらさず、腕も離さず、真摯な表情で訴えかける。
「護衛の仕事がどういうものか、それは分かったつもりです。ああして戦ってる先輩は、確かに本物なんでしょう。でも、だからって、他はぜんぶ偽物ですか? 先輩って、そんなに薄っぺらなんですか?」
 ベッドで頬杖をつきながら、ヴォルグは呆気にとられていた。語尾のしっかりした物言いを、やけに大人びたものに感じたのである。唇を引きしめる表情に、おびえや遠慮はかけらも見えない。
「分かってないのは先輩の方ですよ。だって、なんにも知らないじゃないですか。自分がどんなにぴかぴか光ってるのか。どれくらいのお客さんに、笑顔をわけてあげられてるのか。そんなことすら知らないじゃないですか」
 肯定も否定もしようとせずに、シェラは後輩の瞳を見つめつづけた。が、しめつけられた小柄な身体が、ほどなくぷるぷると震えはじめる。それは次第に大きくなって、やがて一気にはじけた力がルファールの腕を左右に飛ばした。
「へへーんだ! やられてばっかりじゃないからね!」
 奮闘の末に乱れた髪を、シェラは誇らしげにかき上げた。紅潮しきった口元に、やがてにやりと笑いが浮かぶ。
「……かわいくないわね。人の言葉を逆手にとってさ」
「かわいくなくて結構です。だって、あなたの後輩ですから」
 瞬時に返されたうなずきに、彼女はぷいとそっぽをむいた。ため息につづいて上がった腕が、ルファールの顔をまっすぐ指さす。
「あっそ。あんたがそういうつもりなら、これまで以上にびしびしいくわよ。いくら泣きべそかいたって、今度は放っておくからね」
「……! やったあ!」
 薄い木床をたわませて、ぴょんとルファールが飛びはねた。
「さあ、それじゃお店に行きましょう! 早くしないと、ナゼルさんに怒られちゃいます!」
 彼女はシェラの手を取って、扉に向かって走りだす。
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ。痛い、痛いってば! 肩が抜けちゃったらどうすんのよお!」
「早くシチューを教えてもらえよ。俺の愛想がつきないうちにさ」
 ベッドでてのひらを振るヴォルグに向けて、恨めしげな視線が送られた。が、それ以上なにもできないままに、シェラは廊下へ引きずられていく。
「レフィタル、か……」
 相棒が生まれた国の名を、ヴォルグはそっとつぶやいた。
 聞かずとも、彼女がつづけようとした言葉はわかる。それにうなずくということは、つまり白狼を抜けるということだ。
 さして遠くない将来に、転機はやってくるのだろう。それが、はじめての、なにより最高の相棒との別れの時になるのだろうか。
「ヴォルグさーん」
 開けはなたれたままの窓から、ルファールの呼び声が飛びこんでくる。身を乗りだして見おろすと、たたずむ二人と目があった。
「行ってきまーす! またお店に来て下さいねー」
 ぺこりと頭を下げてみせ、ルファールがはずむように走りだす。苦笑で首を振ってみせ、シェラも彼女の後ろにつづいた。
 夕闇広がる下町を、二人はかろやかに駆けていく。アルモリカ湖で見たシアネのように、からみあうかごとき螺旋を描いて。
 草の香りをふくんだ風は、秋の涼やかさにみちていた。季節はいよいよ変わりつつある。あの青い鳥たちは、もう渡りに出かけてしまっただろうか。彼女らの背中を見送りながら、ヴォルグはぼんやりと思うのだった。

< 了 >




着 稿:2000-04-01
第4版:2000-07-24



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posted by omune at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作、制作 | 更新情報をチェックする
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