2001年01月14日

『 死にたがりのリル 』3



「アーナさん、探してた人に会えたのかなあ」
 窓から夜更けの街並みを見回して、リルはぽつりとつぶやいた。数日ぶりとなる一人きりの夜だった。そう、彼女と知り合ってから、まだたったそれだけしか経っていない。それなのに、夜の静けさがどうしてこんなに寂しいのだろう。
「どんな人なんだろう。あの人の旦那さんって」
 アルベリーでの夫婦生活をリルはぼんやりと想像してみた。彼女は思った事をはっきりと言うだろうし、なにごとにつけ強気に突っ走っていきそうだ。旦那さんはきっと振り回されて大変だろう。ため息をつきながら汗をぬぐう男の姿が心に浮かび、リルは口元をゆるませた。
「いやいや。ひょっとしたらそんなの全然気にしない、肝の据わった人なんじゃ?」
 だとしたら、あのアーナがごろごろ甘えたりするのだろうか。そんな時の彼女は、どんな表情をしているのだろう。いずれにしてもきっと楽しい家庭であるに違いない。もしも自分にアーナのような彼女がいたら、辛かった修行の日々ももう少し明るく過ごすことができただろうか。
「……もう寝よう」
 自分が情けなくなってきて、リルは窓際から退散する事にした。と、その時である。ひしめき並ぶ屋根の向こうで、青白い光が輝いた。
「え! ええ?」
 あわてて視線を振り向けるが、そこにはすでに名残すらない。
「かみなり?」
 しかし窓から顔を突き出すと、空にはたくさんの星々が輝いていた。とても雷鳴とどろく天候とは思えない。それに光源は頭上ではなく、もっと低いところにあった気がする。
「あっちは……、確か桟橋が見えた方だっけ」
 それはアーナが去って行った方向と一致する。今しがたの輝きも魔術によるものだとすれば説明がつく。
「まさか、アーナさんが戦ってるんじゃ」
 そう言えば部屋を出て行く時、彼女の様子は明らかにおかしかった。先日、旅の目的を説明してくれた時もそうだった。いつも朗らかで元気な彼女にあんな表情をさせる、その探し人とはいったいどんな人物で、どんな関係があるのだろう。
「俺に分かるわけないよなあ」
 振り返ってみれば、アーナはその身の上をほとんど話してくれていない。どんな家庭でどんな風に育ってきたのか。どんな想いを抱いて魔術研究所に入ったのか。どうして研究活動よりも遺跡探索の道を選んだのか。今さらながら知らない事ばかりである。だがそんな彼女が一度だけ、確かこんなことを言っていた。
「子どもの頃、一家団欒っていうの? そういうのにあんまり縁がなかったから」
 あれは――
 そう。『生まれ損ない』という言い方をたしなめられて、ついつい反抗してしまった時だ。
「きっと良い家柄に生まれて、すごい血統に恵まれて、優秀な成績で魔術学校を出て。それで研究所に入ったんでしょう?」
 なに一つ事情を知らないくせに、我ながらよく言ったものである。もしかしたら、おどけた言動の裏で彼女は傷ついていたのかもしれない。急に自己嫌悪に襲われて、リルはベッドに逃げ込んだ。だが、何度も寝返りを打った末、結局むくりと起き上がる。
「アーナさん、大丈夫かなあ」
 毛布をベッドに投げ捨てて、うろうろと室内を歩いて回る。しかし、そうしていてもらちが明かない。あきらめて仕方なくベッドに戻る。それでもやはり眠れない。再び起き上がって、また窓の外を眺めてみる。そんなことを繰り返していると、やがて部屋の扉が叩かれた。
――こんこん。
「……まだ、起きてる?」
 待ちわびた声にリルはベッドから飛び起きた。机上のランプを手に取って急ぎ扉へ歩み寄る。
「お帰りなさい。アーナ、さ、ん……」
 扉の向こうから現れたその姿に、リルは続ける言葉を失った。
「ただいま。起きててくれて良かったよ」
 乱れ切った髪から泥だらけの靴先まで、彼女はひどく汚れていた。服は何カ所かが裂けており、露になった皮膚から血が滲んでいる。傷の痛みのせいなのか、潤んだ眼は真っ赤に染まり、まぶたもひどい腫れ様だ。そんな哀れな姿になりながら、それでも彼女は微笑んでいた。
「もう遅い時間でしょ? どうやって起こそうかって悩んでたんだよ」
「こんなにぼろぼろになっちゃって。いったい何があったんですか?」
「……あはは。ちょっと危なかったかもしれないね」
 笑った声が枯れている。くり返し眼を拭う姿がなんとも言えず痛々しい。
「うーん、さすがに早く着替えたいなあ。ちょっと後ろを向いててくれる?」
「あ、は、はい!」
 言うが早いか武装を外しはじめられ、リルは泡を食って身体を回した。うつむいた後ろから、布地のこすれ合う音が聞こえてくる。
「……!」
 気が付けば、壁で裸体の影が揺れていた。影姿は腕の傷口に包帯を巻きつけているようだ。リルはしばし固まって、それからあたふたと視線を逸らす。
「お待たせ。もういいよ」
 果てしないほど長く感じられた時がようやく終わった。おずおずと振り向くと、アーナは既にベッドの中だった。毛布にくるまった身体がひどく震え、かたかたとベッドの足を鳴らしている。
「震えてるじゃないですか。寒いんですか?」
「ん、少しね。でも、大丈夫だから」
「……とてもそうは見えませんよ」
 近づいてみると、汚れのふき取られた顔は青白く、まぶたの腫れがなおさら目立つ。
「もしかして熱があるんじゃないですか?」
「いいから!」
 額に触れようとしたリルの手を彼女は激しく跳ねのけた。普段の様子からは想像もつかない、高くヒステリックな声だった。
「うっとおしいな! 私の事なんか放っておいて!」
「あ、す、すみません」
 うろたえながらの謝罪に、しかしアーナは答えない。まるで拗ねた子供のように背中を向けただけだった。薄暗がりの部屋に重苦しい空気が満ちていく。
「ごめんね」
 彼女が口を開いたのは、長い沈黙の後だった。向けられたままの背中と同様に、その声は細かい震えを伴っている。
「いえ、別に気にしてませんから」
「あのね、リル君。これからいう事をよく聞いて」
「……はい」
「朝になって街の門が開いたら、すぐにここを出発するの。そしてまっすぐ実家へ帰りなさい」
 その指示には時おり、「ぐすっぐすっ」と鼻をすする音と「ひっ」という小声が挟まる。彼女のまぶたが腫れている理由をリルはようやく確信した。
「私、追われてるのね」
 戻らぬ返答を待ちきれなかったのか、アーナは涙声で言葉をつづける。
「ううん、追わせてる、のか。あいつとの決着は私が望んだことだから」
 しかし、おそらくこの宿を襲ってはこないだろう。交易所の隣には衛兵の詰所があるし、「あいつら」も他領での騒ぎをこれ以上大きくしたくないに違いない。それがアーナの説明だった。だが、リルにはわけが分からない。「あいつら」というのは誰なのか、ずっと探していた人なのか。そう訊ねてはみたのだが、アーナはやはり教えてくれない。
「でも、もしも朝までに何かあったら、君はとにかく逃げるんだよ? 私の事は気にせずに自分のことだけ考えて。いいね?」
 でないと、たぶん一緒に死ぬ事になる。そう言い終わったところで、アーナはこちらに身体を向けた。
「……アーナさん」
 案の定、その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。しずくが次から次にまぶたを越えて、ベッドに流れ落ちていく。
「たぶん私は負けると思う。でも、君を巻き添えにはできないからね」
「そんな……。アーナさんほどの術師がやられるなんて」
「あいつは古代魔術系の技を使うから。それは私も同じだけれど、もう石が一個しか残ってないの」
 それが一般の術よりはるかに強力な技である事、そして発動に一級品の魔結晶が必要な事は、精石師の端くれとしてリルももちろん知っていた。
「でも、街中の石屋を探せばどこかにあるかも」
「無理だと思う。術の封入も普通の精石師さんにはできないし」
 彼女の涙はいつの間にか止まっていた。それどころか、その口元には弱々しいながらも笑みが戻ってきている。
「だから、いい? 君は朝一番で出発するの。着いたらお母様によろしくね」
「で、でも。それじゃアーナさんは?」
 彼女はやはり答えなかった。が、寝返り様の視線がリルに答えを教えてくれた。
「アーナさん……」
 再び向けられた背中を見つめ、リルは立ち尽くしていた。こうして説明を受けてなお、詳しい事情は分からない。敵が誰かも分からない。ただ、アーナが覚悟を決めている事だけは分かった。
「う、ううう」
 傷がうずくのか、彼女は時おりうめきを漏らす。見れば、その背中はなおも細かな震えをくり返していた。しかし疲れに負けてしまったのか、やがてすうすうと小さな寝息を立て始める。
「俺……、どうしたらいいんだろう?」
 目を閉じ唇を噛みしめて、リルはしばらくの間考えこんだ。そして自らの背嚢に歩み寄り、おもむろに中身を探りはじめた。

     ■

 どれほどの時間が経っただろうか。木壁の向こうから人々の喧騒が聞こえてくる。
「う、ううん」
 アーナのまぶたが微かに動き、やがてゆっくりと持ち上がった。
「もう……、いい加減に起きなくっちゃ」
 手足が、そしてなにより気持ちが重い。這いずりながらベッドを抜け出し、寄りかかるように鎧窓を開け放つ。と、港町の光景を春の陽光が明るく照らしだしていた。
「ずいぶん寝坊しちゃったな」
 通りの賑わいや日の角度からして、思いのほか長く眠ってしまったようだった。もしも寝込みを襲われていたら、ひとたまりもなかったに違いない。だが、睡魔を跳ねのける心の力を昨夜の自分は失っていた。そして、おそらくは今もそうだ。
「リル君?」
 見渡した室内に彼の姿はなかった。ベッドはきれいに片づけられているし、荷物もない。昨晩の言葉に従って、素直に出発してくれたのだろう。
「さよなら……。色々言っちゃってごめんね」
 あの若い精石師に会う事は、もう二度とないだろう。その最後の夜に辛くあたってしまったのが今さらながら申し訳ない。
 街道で彼を見かけた日、その消え入りそうな雰囲気が気になった。それで無理やり道連れとなってしまったが、少しは気を楽にしてあげられただろうか。
「負けるなよ、リル君」
 そう、彼は自分とは違うのだ。精石の道でつまづいたからといって、人生が終わってしまうわけではない。
 アーナ=エス=ティエルには、はなから魔術の道しか与えられていなかった。ヴァプトンに代々続く高位魔術師の称号、『エス』を守り抜く存在として育てられた。
 物心ついてからは妹と何かにつけて比較され、とにかくお互いに必死だった。その甲斐あって、姉妹そろって目指す魔術研究所に入る事ができた。しかし、さほど嬉しくもなかった。両親の方が、よほど喜んでいたのではなかろうか。
 研究所の外で働く道を選んだのは、そんな親たちへのささやかな反抗だったのかもしれない。そして石探しという命がけの仕事の中で、後に夫となるルフレイに出会った。彼は義務感でがんじがらめにされていた自分を解放してくれ、やがて生きる支えとなった。
「なのにどうして……」
 昨夜の出来事が未だに現実と思えない。夫は自分を捨て、ラヴェッサを選んだというのか。しかしその一方で、彼はこうも言っていた。「俺に妻などいない」と。そんな言葉にすがりついている己が滑稽だった。「馬鹿な女だ」とまで言われ、幸せだった日々を切り捨てられたというのに。
「やだなあ、また泣けてきちゃった。鼻水たれちゃう」
 顔拭きの布を求めてアーナは机に歩み寄る。そして、その上の置き手紙に気がついた。
「なに、これ?」
 羊皮紙を埋めている魔術語は、明らかに自分の筆跡ではない。内容は術の封入に関してだから、おそらくリルのものだろう。見れば、ひときわ新しい書き込みが四角い枠で囲まれている。
『おはようございます。街で最高の石を探してきます。それと傷によく効く薬も』
「ば、ばか! どうして言う通りにしてくれないの!」
 思いもしなかった内容に、アーナは口を覆って立ちつくす。
 こんなはずではなかった。五つも年下の彼にこれほど気を使わせて、そればかりか危険に身をさらさせてしまうとは。一緒にいてはいけないと昨夜あれほど言ったのに。
「戻ったらこっぴどく叱ってやるから」
 無事を前提としたつぶやきで、彼女は不安への抵抗を試みた。この場所をラヴェッサに知られていなければ、そして自分と一緒に行動していなければ、リルが狙われる事はないだろう。きっともうすぐ扉が鳴って、笑顔を見せてくれるはず。と、そんな期待に応えるように、誰かが扉をノックした。
――リル君?
 そうであって欲しい。はやる気持ちを抑えつつ、アーナは無言で扉に向かった。見れば、彼が出て行ったまま扉の閂は抜けている。隙だらけだったのにわざわざ知らせてきたわけで、襲撃者である可能性は低そうだった。とはいえ、それでも油断はできない。内開きの扉を押しつけながら、低い声色で呼びかける。
「どなたですか?」
「アーナさんだったな。あんたに手紙が届いてる」
 残念ながらリルの声ではない。しかし、どうやら敵でもなさそうだった。そっと扉を引き開けると、見上げんばかりの大男が折り畳まれた羊皮紙を差し出した。銀のもじゃもじゃ髭が印象的な、この宿の主だった。
「手紙って? 誰から、ですか?」
「さあね。持ってきたのは見た事もない男だったよ。それじゃ、確かに渡したぞ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、彼はそそくさと階下に引き返していった。
「なんだろう?」
 小首をかしげたアーナの歩みは、わずか二、三歩のところで止められた。手紙に施された封蝋にデネルの文様、五芒星を見たからだった。
「ま、まさか!」
 あわててそれをむしり取り、震える指で折り目を戻す。そこに記されていた内容はアーナの期待を瞬時に、そして粉々に吹き飛ばすものだった。
「……リル君、待っててね」
 そうつぶやいた表情がみるみるうちに引きしまる。その目にもはや涙はなく、青緑の瞳は強い決意に満たされていた。

     ■

 ルスタインからさらに半日ほど街道を行き、森の中へと向かう小道に入る。そしてそのまま大木の間を縫うように進んだ先に、とある小さな村があった。広大な森がそこだけぽっかりと開けていて、空の鳥たちからはまるで絶海に浮かぶ孤島のように見えるだろう。
 村と言ってもそこに人の姿はない。もうずいぶん前に放棄されてしまったらしく、粗末な家々のあるものは傾き、あるものは柱しか残っていない。その最深部に位置する広場で、アーナは一人たたずんでいた。宿屋で手紙を受け取った、翌日の昼下がりの事である。
「来たわよ、ラヴェッサ!」
 荒れ果てた周囲を見回して、アーナは裏切者の名を呼んだ。と、ほどなくその一つ、教会だったらしい廃屋の中から彼女と、縛られ猿ぐつわをされたリルが現れた。後には数人の剣士が続く。揃いの剣と防具はあの日、ルスタインで対峙した男たちと同じものだ。
「むーむ、むううう!」
「怪我はない? もう少しだけ辛抱してね」
 アーナに鋭くねめつけられても、敵たちは平然としたものだ。
「書類は持ってきてくれたのかしら?」
 無言のうなずきを返しつつ、アーナは胸当ての下から羊皮紙の束を取り出した。
「彼は……、ルフレイはどうしたの?」
「とっくのとんまに船の上。石やお宝と一緒にね。あんたが倉庫の壁をぶち破ったりするもんだから、大騒動になっちゃってさ。やり辛いからしばらく消えようって話になったのよ」
 そこでいったん言葉を切って、ラヴェッサはさも愉快そうに目を細めた。
「なあに? 捨てられた男がそんなに気になる?」
「う、うるさい!」
「おー、怖い怖い」
 大げさなおどけに、男たちの間に笑いが起こった。
「ねえねえ。彼の太ももの付け根にさ、大きなあざがあるでしょう?」
「……な! な、なにを」
「あの人って大きいわよねえ。それにとっても上手だし。あんたが未練たらたらなのも無理ないわ」
「ふざけないで! そんな話、今はどうでも良いでしょう?」
 書類を取り落としそうなほどに震える右手を、アーナは左手で懸命に押さえつけた。
「そういきり立たないでよ。そもそも私から言い寄ったわけじゃないんだからさ」
「やめてよ。もう、これ以上聞きたくない」
「それじゃ最後に一つだけ。あの晩、あんたを後ろから殴り倒したの誰だと思う?」
 問いかけの形をとってはいるものの、ラヴェッサが何を言おうとしているかは明白だった。
「うそ、だよ。そんなの嘘だよ!」
「信じようが信じまいが事実は事実よ」
 口角を上げたラヴェッサが、「ふふっ」と小さな笑いを挟む。 
「あの人、いつも言ってたわ。上から目線が本当に嫌だったって。家柄も良くて、魔術の腕も立って、誰からも好かれて。あんた、それを自覚して周囲を下に見てるでしょう?」
「ち、違う! 私、そんなつもりじゃ」
「違わないでしょ? なんでも自分で決めちゃって、彼の本音なんか知ろうともしない。そのくせ甘ったれで束縛屋。そういう面倒くさい、重たいあんたが心底嫌になったって。そしてそれはあたしも同じ。初めて知り合ったあの日から、あんたの事が嫌だった!」
「……」
 アーナはついに沈黙した。しかし、それでも引き下がるわけにはいかなかった。とにかくリルだけは、無事に実家へ帰してやらなければ。うつむきかけた頭を激しく振って、彼女はもう一度ラヴェッサをにらみつけた。
「とにかくリル君を放しなさい。あなたの相手は私でしょう? 彼は関係ないじゃない」
「あらあら、ごめんなさいね。だって、この子に書類を預けたのかと思ったんだもの。それに、あんたからいろいろ聞いちゃってるかもしれないしさ」
「そんな事するわけないでしょう? それにどうして……」
「どうして? ああ、どうしてこの子が連れって分かったか、よね?」
 縄を二度三度と引っ張られ、リルがふらふらとよろめいた。
「あの騒ぎの後、様子を探りに来たネズミがいてねえ。取っ捕まえていじめてみたら、案外簡単に教えてくれたわ。今頃はご褒美の海水浴を満喫してるんじゃない? ……ちっちゃな麻袋の中でだけどね」
「な、なんてことを……!」
 それはラヴェッサの情報をもたらしてくれた戦友、ゲリックの事に違いなかった。また一人、無関係な私怨に巻き込んで、しかも命を失わせる結果となってしまった。激しい後悔と罪の意識に、アーナの奥歯がぎりりと鳴った。なんとか奮い立たせてきた気持ちが揺れて、無意識に目が潤んできてしまう。
「はやく……、早く縄をほどいてあげてよ」
「あら? 書類が先なのが筋じゃない?」
「リル君が先だよ! どうせ無事で済ますつもりなんかないくせに」
「それはあんたの方じゃないかしら? けど、いいわよ。言う通り、坊やを先に放してあげる」
 ラヴェッサは引き縄を解放し、かたわらの剣士を顎でうながす。ほどなく戒めを解かれた青年は、一目散にアーナの下へ駆け寄ってきた。
「ごめんなさいアーナさん! 僕、なんとか力になりたくて」
「分かってる、分かってるよ。こっちこそ怖い思いさせちゃってごめんね」
「感動の再会中に悪いんだけどさ。まさか、そのまま帰るつもりじゃないわよね?」
 二歩、三歩と間を詰めてきたラヴェッサが、手で男たちに指示を出す。と、彼らはいよいよ剣を抜き、左右に広がって半円形の壁を形作った。
「約束は守るよ。だから、それ以上近づかないで」
 制止に従いはしたものの、男たちはなにやら目配せを交わしあっている。やはり、素直に帰すつもりではなさそうだった。
「合図したら後ろの道をまっすぐ走って。私もすぐに追いつくからね」
 背後のリルに小声で告げると、アーナは羊皮紙をかざして歩みはじめた。やがて相互の距離が狭まると男たちは動きだし、彼女をじわじわ取り囲んでいく。
「ほら、これでいいんでしょ?」
「どうだかね。取り合えず確かめさせてもらうわよ」
 伸ばされたラヴェッサの手が書類に触れる直前だった。アーナは突然、その全てを頭上高くに放り上げた。
「走ってリル君!」
 男たちの視線が逸れた一瞬をついて、彼女の掌からまばゆい閃光が放たれる。
「ぐあっ!」
「ま、まぶしい!」
 目を押さえ、顔をそむける男たちを今度は強烈な痛みが襲った。倉庫で見張りを気絶させた、あの技だ。見るからに屈強そうな男たちが次から次へと、まるで糸の切れた操り人形の様に地面へ崩れ落ちていく。
「ちっ! なかなかやるじゃないの!」
 そんな中、ラヴェッサだけは攻撃の間合いの外にいた。書類が舞い上がった瞬間、とっさに後方へ飛び退いて難を逃れたのだった。
「けど、いつまでも調子に乗ってんじゃないわよ!」
 ラヴェッサの握る魔結晶に大きな黄色の炎が宿る。その刹那に放たれたのは、数えきれないほどの黒い矢だった。塊となったそれはまるで群れを成した蜂のように、形を変えつつ突き進む。
「くっ!」
 反撃を察知したアーナは、すぐさま光の壁を巡らせた。白く輝くこの壁は、ラヴェッサのものとは反対に相手の術力を反射する。激しく跳ね返る矢をまともに受けて、気絶した男たちから紅の鮮血がほとばしった。
 光壁は矢の塊の前半分を四方八方へと弾き飛ばした。が、その全てを防ぎきる事はできなかった。あえなく崩壊し、光の粒となって四散していく壁の向こうで「あっ!」と短い悲鳴が上がる。
「はあはあ……。どう? 実力の差を思い知った?」
 ラヴェッサは勝利を確信していた。消え残る光が邪魔になって獲物の姿は認められない。しかし確かに手応えはあった。いよいよとどめを刺すべく、慎重に一歩、二歩と歩みを進める。と、その時だった。広場を囲む大木の一本を、突然の雷撃がへし折ったのは。
「な、なんだと!」
 轟音とともに倒れてくる幹や枝葉を、ラヴェッサはすんでのところでよけ切った。が、もうもうと上がった土埃がようやく収まった時、既にアーナの姿は消えていた。
「味な真似を……」
 爪を噛みながら近寄ると、道に点々と血が落ちている。
「頭隠して尻隠さずってね。それじゃゆっくりと探させてもらいましょうか」
 ラヴェッサの口元にいつもの冷笑が戻ってきた。まずは散らばった羊皮紙を拾い集め、服の汚れを払って落とす。それから彼女はゆっくりと、道しるべをたどって歩き始めた。

     ■

「大丈夫ですか?」
「うん。こんなのかすり傷だから……」
 裂けたスカートが痛々しい。足に包帯を巻きながら、アーナが弱々しい笑みを浮かべる。
 おそらくは森番が使ってでもいたのだろう。廃村を脱出した二人は、森の中にちっぽけな小屋を見つけた。村の家々と同様に長年使われていないらしく、屋根は一部が抜け落ちて壁や床も穴だらけだ。それでも怪我の処置をする間、身を潜めることくらいはできるだろう。本来なら一気に逃げ切りたいところだが、とにかく血を止めようとリルが押し切ったのだった。
「急がないと。追いつかれたら次はこの程度じゃすまないからね」
「あの人、強いんですか?」
「うん。それもかなりね」
 うなずいた彼女の掌が、そっとリルの両肩に乗せられる。その薬指からは、いつの間にかあの特徴的な指輪が消えていた。青緑の瞳に見据えられ、リルのおとがいがわずかに上がる。
「いい、リル君? 今度こそ言う通りにして欲しいんだ」
「え?」
「あいつに追いつかれたら私が時間を稼ぐから。その間に君はできるだけ遠くまで逃げるんだよ? そうだなあ、一度ルスタインに戻って宿のおじさんに助けてもらうのが良いかもしれない」
「待ってください。それじゃ……、アーナさんはどうなるんですか?」
「うーん。どうなるの、かなあ。まあ、私なんてどうなったっていいんだよ」
 自嘲気味な返答が意味するところは、リルにもはっきりと理解できた。しかし、だからと言って納得などできなかった。
「だめですよ、そんなこと言っちゃ! あきらめないで戦ってください!」
「……! リル、君?」
 不意に声を荒げられ、アーナは呆気に取られたようだった。そしてなにより、リル本人が驚愕していた。
――わああ! 俺、なんで切れてるんだよ?
 彼はこれまで、親にすら噛みついた事がなかった。自分の事で精一杯だったし、最近ではそれすらどうでも良くなっていた。
 そう、死にたがっていたのは自分のはずだ。そんな自分が、すべてをあきらめていた自分が今、どうしてアーナを怒鳴っているのだ?
 リルにはもう何が何やら分からなかった。が、彼女の生死をどうでも良くは思えなかった。ただ、それだけははっきりしていた。
「アーナさん、僕を叱ったじゃないですか! 両親のためにも『生まれ損ない』なんて言うなって。今のアーナさんだって僕と同じじゃないですか?」
 ひと息、一気の説得をアーナは眼を丸くして聞いていた。リルの両肩を離れた腕が、胸をなでるように落ちていく。
「両親、かあ。父上や母上はどう言うかなあ。ちょっとね、変わってるというか、普通の家と違うというか。それに……」
 彼女は肩をすぼめつつ、ぺしゃんこになった腰の袋をつかんでみせた。
「もう石がないんだよ。取って置きのもさっきので粉々になっちゃった。だから、ね。もう戦いたくても戦えないよ」
「石は……、あります」
「え?」
「あるんです。ここに……」
 リルはそう言うと、自らの腰に目をやった。
「え、え? それって石入れ? けど、前は持ってなかったよね?」
「あの日、背嚢から出して行ったんです。良い石を見つけたら入れて帰ろうと思って」
 リルは革袋から二つの魔結晶を取り出した。少し青みがかった色を持つ、いくらか大ぶりの石だった。
「これ、父の形見なんです」
 そう。それは三年前の旅立ちの日に、母から渡された物だった。
「お父様が? 遺された石?」
「はい。なんでもすごい石らしいんですけど、術力は入っていないみたいです」
 彼が差し出した魔結晶を、アーナはそっと受け取った。しばし覗きこんで観察し、それから表面に二本指を滑らせる。
「あれ? ちゃんと力を感じるけどなあ。うーん、普通の石と同じくらい?」
「それ……、僕の術力です」
 様子を見守っていたリルは小さな声で、口ごもりながら説明した。
「あの晩、石が残り少ないって聞いて、久しぶりに術力封入してみたんです。すごい石っていうだけあって、さすがに割れはしなかったんですけど……。でも、やっぱりなんだか手応えがなくて。それで良い石を探しに出たんです」
 両の指をいじくりまわす彼の姿に、アーナの表情が和らいだ。
「そ、その程度の出来で申し訳ないんですけど。その……、一個もないよりはましかと思って」
「ありがとう、リル君」
 柔らかな声色とともに彼女の腕が身体を包む。そのまま優しく引き寄せられて、リルはひどく動転した。
「ア、ア、アーナさん?」
「私なんかのために頑張ってくれたんだ? なんだかとっても嬉しいよ」
 アーナの首筋や腕は驚くほど細くて柔らかい。あの勇ましい戦いぶりが、信じられないほどだった。頬をなでる髪はしなやかで、ほのかに甘い香りが漂ってくる。たちまち恥ずかしさの限界を迎え、リルは半ば強引に身体を引いた。
「い、いいえ! お礼を言いたいのはこっちです! 僕、アーナさんにたくさん力をもらいました。あの人はあんなこと言ってましたけど、僕は違うと思います。確かに高飛車なところもあるし、独善的なところもあるし、調子が良くてなれなれしくて頑固で大食いで酒飲みでいびきもすごいけど! でも、でも……!」
「リル君、もういい……。もういいから」
 泣きそうな表情を真っ赤に染めて、アーナが彼の肩を前後に揺する。
「あ……。す、すみません。つい夢中になっちゃって」
 ようやく我に返ったものの、リルは動転の真っただ中にいた。たった今の事なのに、何を言ったのか思い出せないのである。視線の定まらない彼を見て、アーナは「ぷぷっ」と吹き出した。そして、そのまま腹を抱えて笑いはじめる。
「あ、あはははっ! 君って、さ……、なんだか、とんでもなく素敵だね。 ははっ! いや、すごいよ。すごすぎるよ! あは、あははははっ!」
「あははあ、そ、そうですか、ねえ?」
「うん、ほんと。く、くくくっ! わ、笑ってるけど本心だから」
 すっかり息を乱したアーナが二度、三度と目尻を拭う。そして、ほどなく笑い声が収まった時、その瞳はリルが知る輝きを取り戻していた。
「上等だよ、リル君。このアーナ=エス=ティエル、その名にかけて君を絶対に守ってみせる」
「ありがとうございます。でも、アーナさん自身も、ですよ」
「うん、そうだね……。できる限りの努力はするよ」
 リルは知らない。『エス』なる高位魔術師の称号がどれほどまでに彼女の人生を縛り、支配してきたかを。そして今、彼女が生まれて初めてその立場を逆転させる事ができたのを。
「さあ、行こう。そうは言っても、できれば戦いたくないからね」
「はい!」
 だが、そんな彼らの希望は少々贅沢すぎるものだったのかもしれない。森の小道に戻った二人を、ラヴェッサが今や遅しと待ち構えていたのである。





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posted by omune at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作、制作 | 更新情報をチェックする
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